ト ラ ン セ ン ド ・ ブ ル ー  ×  ナ イ ト ラ ン ド

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 稲光が混じるどす黒い空から、重力という見えない衣を纏った雨粒が激しく降り注いでいた。
 その雨音は鋼の刃が肉と骨を切り裂く音を掻き消した。

 右腕が胴体から切り離され、重力に逆らうように宙を舞う。
 握られていたつるぎは、右手との別れを惜しむかのように虚しく弧を描きながら濡れた大地に鋭く突き刺さった。

( なぜ? 僕の右腕が宙を舞っているのか。どうして? こんな事になってしまったのか )
 少年の混乱する思考は、痛みを感じる事よりも答えを探す事を優先していた。

( 確かに僕は強者との闘いをずっと望んでいた。決して自分の力に自惚れていたわけでも・・・ いや、自惚れていたのか? )
( それでも、こんな結果になるなんて思いもしなかった。僕の考えは甘かった。とんでもなく甘かったんだ )

( 後悔先に立たず )
 窮地だと言うのに、先日の国語のことわざテストで出題されていた事が不意に頭を過ぎる。
 意気揚々と本物の騎士に挑み、まさにそのことわざを地で行く結果となった。
( ぜんぜん笑えやしない )

 少年の混乱していた思考が痛みの受付を開始した。
 今になって猛烈な痛みが、右腕の繋がれていた場所から奇襲を仕掛けてきたのだ。
 痛みは全身を鋭く駆け回り、思考は苦痛の世界に誘われた。

「ウ、ウガァーーアァーー・・・ ゼェゼェゼェ・・・ ゥゥゥウガァーーー!! ウゥゥ・・・」

 深手を負った獣のような叫び声とも呻き声とも分からない声と、肺が潰れてしまいそうな程の深く大きな息遣いだけが雨音に混じる。
全身を巡る激しい痛みと痙攣が、これが生きている証しだと言わんばかりに容赦無く襲ってくる。
 今の少年には、雨でグチャグチャになった大地をのたうち回る事しか出来なかった。

 少年が居たあの平和で穏やかな日々が続く世界。
 そこでは決して経験する事はなかったであろう終わりの見えない苦痛の時間は、少年の意識が途切れるまで執拗に拷問を続けるつもりのようだ。

 そんな苦痛しか存在する事を許されない世界に、透き通りそれでいて何かとてつもない力を感じさせる声が、雨と共に少年に降り注いだ。

「どうやら、腕を切り落とされるのは初めてのようね」
「ゥウゥゥゥ・・・」

 少年は今にも力無く息絶えそうな呻き声でしか、その言葉に答える事が出来なかった。

 背中まである金色の長い髪に雨粒を着飾った一人の女騎士が、少年を見下ろし佇んでいる。

「理解する事は出来たかしら?」

 少年を苦痛の世界へと誘った騎士の声が冷たく突き刺さる。
 しかし冷たい口調とは裏腹に、騎士の目は何故だか悲しみに満ちていた。

 次第に思考が苦痛に支配されて行き、少年の意識が薄れ遠のいて行く。
 微かに意識が残る中、騎士が再び口を開いた。

「ここは想像や幻想という甘美な夢の世界ではない。ここは争いが絶え間なく続く血なまぐさい残酷な現実の世界」

 少年の瞼がゆっくりと閉じて行く。
 意識が無くなる間際に聞こえた騎士の言葉が、止めのように心に深く突き刺さった。

「あなたはこの世界で生き、そして死んで逝くの」

 この時、少年は本当の意味で自分が存在していた世界との別れを理解したのかもしれない。


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 3階立ての中学校の校舎。
 3階から1年、2年、3年と上級生になるにつれ教室の配置される階層が下になる。
 特に珍しくも無い配置なのだが、小学生から中学生に進学したばかりの頃は、誰にも多少なりとも違和感があるものだ。

 校舎の1階。
 1番西側にある3年1組の教室から、1人の生徒の作文を読む声が聞こえてくる。

「僕達が存在するこの地球が本当に世界の全てなのだろうか。広大な宇宙の何処かにある地球によく似た惑星にあるかもしれない世界。今、僕達が存在する次元とはまったく異なった時間軸に存在するかもしれない世界」

「この世界がもっともっと途方も無く大きな世界のたった一部だったとしたら、そう思うだけでもなぜか心が踊る」

「世に言われる想像や幻想の世界のどれもが存在するとは証明されていない。しかし逆に存在しないとも証明されていない」

「僕達が存在するこの世界では決して起こり得ない事が、想像や幻想の世界では当たり前のように起きて行く。もしも想像や幻想の世界が現実に存在したのなら?」

「そこには一体なにが待っているのだろうか。そして、その世界で生きる人達が見る空は、一体どんな色をしているのだろうか」

「人々は太古の昔からそうやって、理想郷や異世界という楽園を夢見て現実に追い求めて来たのかもしれない。もしもそんな世界が存在するのなら僕は行ってみたい」

「未だ誰も観た事の無い風景が広がる世界、その世界こそが僕の本当に還るべき場所なのかもしれない・・・」

 パチパチと教室に響く儀式的で単調な生徒達の乾いた拍手の音の中、作文を読み上げた榊剣一さかきけんいちが椅子に着席する。
 拍手と共に教室の開け放たれた窓からは、夏の終りを告げるに相応しい気持ちの良いそよ風が優しく吹き込んできた。

 今は5限目の国語の授業中。
 給食の時間も終わって、ちょうど気だるい感じのする時間帯だ。
 そんな誰もが眠気に襲われる時間帯に〈 もしも 〉というテーマで、クラスの一人一人が夏休みの宿題として課せられていた作文を発表しているところだった。

「はい、榊君ありがとう。相変わらず榊君は面白い事を考える子だなって感じました。もしかして、榊君はこの世界に退屈でもしているのかな?」

 そう剣一に優しく微笑みながら言葉を掛けるのは、国語の担当教師であり剣一のクラスの学級担任でもある藤澤明美。

 〈 もしも 〉という何でも書けてしまいそうな自由なテーマだったとは言え、余りにも可笑しな事を書いてしまったと今更ながらに剣一は後悔していた。
 先日の小テストで出題された〈 後悔先に立たず 〉という言葉を思い出した剣一は、藤澤の言葉も他所に頭を抱える。

「想像や幻想の世界って、ちょっと先生も行ってみたいかもしれないなー。でもこの現実の世界にだって、まだまだ観た事もない美しい景色や経験した事のない素敵な出来事だってたっくさんあると思うから!」

 藤澤の感想を苦虫を噛み潰したかのような表情で聞いている剣一は、もうこれ以上、無意味な感想など聞きたくもないと心の中で呟いていた。

「榊君、まだ14だよね? 先生の半分しか生きていないんだもの、これからもっともっと色んな世界が待っていると思うから。楽しんでいこ!」
「・・・はい」

 剣一は調子の良い藤澤の言葉に歯切れの悪い返事を返した。

 担任の藤澤は知的で明るいスタイル抜群の美人。
 男女問わず生徒からは絶大の人気を誇る絵に描いたような学校のマドンナ的存在だった。
 独身の藤澤に恋愛感情を持つのは男子生徒ばかりでなく、男性教諭にも多くいた。
 大抵の男のなら虜になってしまいそうなものだが、剣一は珍しく藤澤に対して苦手意識を持っていた。
 と言うのも藤澤は見掛けによらず、一昨年から新設された〈 武術部 〉という剣一が所属する部の顧問でもあった。
 剣道部や柔道部が中学校にあるのは珍しくもないが、武術部などと言う部活動がある中学校は全国を探しても此処ぐらいなものであろう。
 藤澤はもう何ヶ月も部活動に顔を出さずサボるようになっていた剣一に、顔を合わす度にいつもの明るい調子で声を掛けていた。
 それが剣一には煩わしく苦手意識を持つ原因でもあったのだ。

 剣一が武術部に所属している理由は簡単で、実家が古武術を教える道場を経営しているからだ。
 年々物騒になって行く世の中に比例するかのように、女性を中心に受講生は順調に増えており、言い方は悪いが経営の視点から見ればかなり繁盛していた。

 剣一の父方の家系に、1万年以上という途方もない時を経て伝えられる嘘みたいに古い武術〈 天地清浄流てんちせいじょうりゅう
 様々な時代を国を生き抜き変化し続けて来た為に、今では始祖の頃とは随分と違った武術に変貌しているに違いなかった。

「はい、それでは次は花宮さんに発表をお願いしようかな」
「ハイっ!」

 藤澤に指名された花宮由美子が元気な返事と共に立ち上がり作文を読み始める。

 どこか大人びた感じのする由美子は学級委員長を務めるポニーテールの良く似合う活発な女の子、文武両道で誰からも好かれる生徒のお手本といった存在だった。
 まさに優等生を地でいく由美子は剣一との接点が多く部活動も同じ武術部であり、そして剣一の実家の道場にも通っている。
 武術の腕の方はと言えば、師範級の腕を持つ剣一から見てもけっこういい筋をしているようだ。
 そんな由美子の読み上げる作文の内容は〈 もしも自分の飼っている犬が喋れたら 〉という内容だった。
 犬好きの彼女らしいテーマだと剣一の頬が少し緩んだ。

 剣一の座る席は南側にある窓際の一番後ろ、漫画やアニメで言えば主人公が決まり事のように座る位置になるのだろうか。
 時々、陽射し避けの為に閉められたカーテンが、風でヒラヒラとまとわり付いて来るというオマケ付きの席だ。
 給食後の最初の授業という事もあってか、外の陽気な天気も手伝って眠気に敗北している生徒が何人もいる。

 作文を読上げる由美子の声を片耳に、剣一はボーっとしながら窓から見える空を眺めていた。
 剣一の深く蒼い瞳の色を少し薄くしたような青空が広がっている。

 剣一の母方の祖父は北欧から海を渡り移り住んだアメリカ人で、幼い時には祖父によく遊んで貰った記憶が今でもある。
 祖父との思い出は良い思いでばかりだが、この蒼い瞳のせいで子供の頃から周りの人間に見世物のように扱われる待遇にはうんざりしていた。

 剣一の蒼い瞳がずっと遠くを飛行する飛行機を捕らえた。
 航空自衛隊の訓練機だろうか、一機の戦闘機がまるで青空に吸い込まれて行くように飛行機雲を残して消えて行く。
 上空の風が思ったよりも強いのか、台風一家の青空でもないのに辺りの雲は異様なまでに荒々しく流れている。
 真っ直ぐに伸びた綺麗な飛行機雲は見る見る内に形を変えて行き、そして消えて行った。






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